1. 完璧主義をやめたいと思った背景
私が完璧主義をやめたいと思ったきっかけとしては、以下の3つが挙げられる。
- 傍観者でいることに嫌気が差したから
- 承認欲求が枯渇しているから
- 理想から目を背けていることに気付いたから
それぞれ詳しく語っていきます。
1-1. 傍観者でいることに嫌気が差したから
日々つかの間の休日や休息時間を、SNSで消費してしまうことが多い。手元のデバイスを傍観しているだけで、非日常を味わえるのだから至極当然のことだろう。
2022年下半期は、YouTubeやTikTokを長時間視聴することが多かったように思う。
コンテンツからエンタメを摂取することで、自身の気持ちを紛らわせることができた。現実が辛すぎるときには、現実逃避の場として活用させてもらった。傍観しているだけでも、社会と接続できている・ほんの少し一員になれている気がしたから。
発信者のコンテンツを無心で観て時間を潰す一方で、自分は何も生みだせていない。「何かやりたい!」と思っても、行動には移せず、結局そのまま時間だけが過ぎていく。そして気付いたら意欲が消えている。
そんな悪循環が長期間続き、嫌気が差した。
1-2. 承認欲求が枯渇しているから
私は承認欲求が人よりも格段に強いという自負がある。大学2年生の時に初めて「嫌われる勇気」を読み、これまで言語化されてこなかった21年間で生じた人生の選択が、全て承認欲求であったことに気付かされ、自己嫌悪に陥ったことがあるくらいに。。
承認欲求については、また別の記事でも語りたいな。
他人にどう思われるか?が気になりすぎて、ろくに自己主張ができない。SNS上でも同じだ。
とはいえ、他者の気持ちを敏感に察知して、円滑にコミュニケーションは取っていきたいとは思う。ただし、批判を恐れてアウトプットをためらうのは “違う” ということを学んだ。
批判されたくないための少量のアウトプット、アピールに何の魅力があるのか?その状態を他人に好まれて嬉しいはずがあるか?なかった。
1-3. 理想から目を背けていることに気付いたから
「ああなりたい」「いつかあれをやりたい」など沢山理想はある。ただし、自分の体質、コンプレックスなどから、一歩が踏み出せない。
一歩を踏み出して苦い思い出ができたことも、あるから。同じ思いをするのが怖いから。あの時、乗り越えられない壁もあると思ったから。
でも、今日とあるインフルエンサーのインスタ投稿で、素敵な文章を見た。
「恐怖と向き合うのが怖いのは、恐怖を感じることに対してあえて突破しないといけないから」
「こわいっ!って思う時こそが、飛び込む時なのだ!」
「やっぱり恐怖の先には、最高の景色が待っている」
恐怖と立ち向かわなければ、真の意味での満足を手に入れることはできないだろう。
とはいえ、強靭なメンタルの持ち主ではないから、すぐにトラウマ・苦手を克服できるとは思わない。向き合うことで、心の平穏・心身における健やかさとは乖離する場面も出てくるはずだ。
それでも、乗り越えたい。向き合い続け、頑張り続けたいと思えた。
2. 完璧主義者をやめて、どうなりたいのか?
完璧主義をやめて、自分らしさを表現して評価されたい。
私が好きなアイドルやインフルエンサーの特徴として、「自分らしさ(個性)を活かして成功している点」が共通していることに最近気が付いた。どこか他の人と違うことで、コンプレックスとも捉えかねない所を活かしている生き様がかっこいいと思う。
このようにかっこいいな、素敵だなと思う人・ポイントがより明確になった。コンプレックスを隠すのではなく、怖いけど、むしろ活用して生きていきたい。それが多分憧れる自分像だと思う。
自分が他者に寛容であり、戦っている人が好きなように、戦っている私を好きでいてくれる人もいることを信じて。(深夜1時半のため、キザなことを言っていたらすみません。そこも愛してくれたら嬉しい。)